
▲国産第1号火縄銃を製造した八板金兵衛の銅像
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1955年(昭和30年)秋,たまたま,22号台風によって削られた広田(南種子町)の浜ノ山から,人骨,土器片,貝製品が多数発見された。 特に,「山」の字を彫った貝符をはじめとして出土した貝製品のおびただしさは驚くべきもので,この広田遺跡は弥生時代の集骨再葬墓として学会の注目を集めた。
さてこの遺跡からは,鉄製製品が2本出土した。ほかにも上能野(西之表市住吉)の弥生期の貝塚からも1本出土しており,種子島にはすでに製鉄技術があったことが推定されている。また,広田遺跡の副葬品の貝符に彫られたトウテツ文様は,それぞれ刻線の鋭い緻密なもので,これを彫るには,やはり鉄製の刃物を用いたであろうと想像され,鉄器の使用は,かなり多岐,広範にわたっていたのではないかと思われる。
すなわち,種子島でははやくから鉄の技術が存在していたことは,種子島をとりまく海浜に,今なお莫大な砂鉄が埋蔵されていること,さらに,全島を蔽うていたに相違ない照葉樹林を考えるとき,しごく当然のことと思われる。
種子島では,昔は製鉄にかかわる一斉の作業を「たたら」と呼称した。おそらく砂鉄の選鉱に,わずかに傾斜し樋状の用水路を使用したと思われ,いつしかその用水路も「たたら」と呼ばれるようになった。この水路を利用する選鉱は後,かんな流しに変わり,大正時代まで続いた。
こうした製鉄・鍛冶の古い歴史をもつ種子島に,1543年,鉄砲が伝来した。この鉄砲を模作し,国産化した鍛冶は,八板金兵衛清定を惣鍛冶とする鍛冶集団であった。
この八板金兵衛の系図には,興味深い部分がある。その系図の冒頭に「濃州,関の鍛冶,刀剣を善くし産業の為に来るとある。
この時代は,各地方の豪族や小名が,事あれかしと乱を狙い乱を起こし,互いにせめぎあった。それらが,敵の戦力をそぐのに使った戦術は,鉄や塩のルートを絶つことであった。鉄なしには鍛冶はなりたたない。原料なしには関も空名である。
その鉄の産地として,関の鍛冶・八板金兵衛が種子島をめざし移住したというのは,鉄の島としての種子島が,国内に広く知られていたということにほかならない。また,そのことが,鉄砲国産化を成功させた要因でもあった。
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▲西之表港にある日・ポ親交公園
中央はポルトガルから贈られた「海の男の像」 |

ところで,1543年に漂着した南蛮船とは,実は明国船だった。船宰は明人倭寇といわれた王直で,王直は五峯という儒者名を名乗っていた。乗組員は,明人,琉球人,3名のポルトガル人をあわせて,百数十人だったと伝えられているが,それを収容できるのは,多くの宿坊をもつ赤尾木港頭の慈遠寺だった。
一方台風にもまれて漂着したと伝えられるくらいだから,やはり明国船はかなりの損傷を受けていた。造船には高い技術をもつ種子島の船大工がその修繕にあたった。こうした技術を支えたものに,もちろん,豊富な船材もあったに違いないが,問題はやはり鉄,すなわちすぐれた船釘が生産されていたと考えられる。
この間,ポルトガル人の一人が,豊後の大友氏に招かれて出かけたが,その滞在が意外に長びいた。こうして明国船の滞在は半年にもおよび,この長い期間が,島民と船員の交流を深く多彩なものとした。島民は進んで新しい知識を求め,それらの文物の受容に努めた。
たとえば,ポルトガル風の焼きパン,明国風の蒸しパンすなわち「饅頭」。止血薬,消毒薬としてのタバコ。明国人の日用品だった中央支点式の鋏。さらに,樟脳油ではなかったろうか。もともこれは,腫れや傷などに効く最良の薬だった。樟の大木から天然の樟脳油を集めることとか,あるいは蒸留して樟脳を作る方法をも学んだかもしれない。そしてこうした知識の最たるものが,技術と科学の集約された,鉄砲であり火薬であった。 |
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| ▲ネジ切りの技術の修得が火縄銃製造の鍵となった。今では「ネジ」のない生活は考えられないが、この名は鉄砲を分解した種子島の鍛冶達が「捻り(ねじり)」と名づけたことに始まる。 |
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| ▲火縄銃の国産化を成功させた種子島時堯(種子島家第14代島主) |

明けて1月,明国船は島を離れて,中国の寧波に向かった。このとき,ポルトガル人の一人,フェルナン・メンデス・ピントは,種子島の人たちが早くも鉄砲を造って使用していたとある種の驚きをもって書いているが,この段階の鉄砲は完成品とはいえなかった。ネジ(内ネジ)の切り方ができなかったため,尾栓を熔接したものだった。
これは,のち「種子島張り」と呼ばれた工法であるが,発射後の滓抜きがきわめて困難であり,そのため,不発・暴発の危険をはらんだ欠陥銃だった。
1544年(天文13年)3月,今度はポルトガル人自ら船長となって,寧波からの船が熊野浦に入港した。意外にもこの船には鉄砲鍛冶が乗っていた。ここで初めて金兵衛は内ネジの切り方を修得し,完全な国産銃の誕生となったのであった。
『種子島家譜』はその事情を「今春(天文13年)南蛮船熊野浦に漂来す。船客中一人の鉄匠あり,恵時(13代島主),時堯(14代島主)おもえらく,天の授くる所なりと,即ち金兵衛清定という者を遣わして,鉄砲を製するを学ばしむ。期年にして新たに数十鉄砲を製し世に流布す,日本鉄砲の権輿か」と伝えられている。
かくて鉄砲は,橘屋又三郎によって堺へ,津田監物によって根来へと伝わり,たちまち全国へ広まった。種子島では,黒山と呼ばれる台地の西側に,鍛冶50軒が集落をつくっていたといわれる。銃身,からくり,木工と,分業で製作したとすれば,この50軒も誇大な数字ではないかもしれない。
1590年(天正18年)に,20匁玉の鉄砲200挺の献納を太閤秀吉に命ぜられ,数ヶ月でその責を果たした生産力は,並々ではなかったと感嘆せざるを得ない。もちろん,それを可能ならしめた製鉄能力,そして莫大な量の木炭も含めてである。
種子島の名を天下に広めた火縄銃も,明治になり,元込め式,雷管打ちの銃の発達によってその使命は終わったとはいえ,種子島鍛冶19名が新設の造幣廠に穴直し技術者として採用された。やはり伝統の力ということであろう。また,ほかの鉄砲鍛冶は鋏鍛冶として新しい活路を見出し,その伝統は手打ち種子鋏として声価を保っている。
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| ▲わかさ公園にある日本・ポルトガル修好記念碑(左)と友好記念碑(右)・・・修好碑は鉄砲にちなんで弾丸の形をしている。 |
 製鉄遺跡としては,時代は下るものの,正徳年間に時の島主久基が,現和の武部に建設した製鉄所の跡地が残されている。これは,たたら場と地形との密接な関連を,百聞にもまして示している。
鉄砲関係の史跡としては,最初の漂着地,南種子町西之の前之浜を見下ろす門倉岬に鉄砲伝来紀功碑がある。 また,西之表市の若狭公園は,鉄砲伝来の陰に咲いた悲恋の女性,八板金兵衛清定の娘「若狭」を記念して名づけられた公園で,ここには日ポ親交碑,日ポ修好碑がある。ちなみに若狭の墓は,この公園から400メートル北,甲女川を渡った雲之城にあり,若狭を追悼した海音寺潮五郎の歌碑もある。
資料
「鉄砲伝来前後」ー種子島をめぐる技術と文化ー
井塚政義・飯田賢一 監修
種子島開発総合センター編
<有斐閣> |